きょうちゃんがきてくれたら、ほら、お星さまがわらったよ。
僕が歩けば星が瞬いた。あの子が笑った。僕らはあのとき、確かに星の海にたゆたっていたのだ。
流
星
群
十年近くも前の話だ。僕の家の向かいの和風でやたらでっかい家に住んでて、いつも僕の家に勝手に遊びに来てた女の子。僕たちが生まれてから、あの子が県外の小学校に通うことになって家を引き払ってどこかへ行ってしまうまで、ずっと一緒だった、女の子。名前は、ああ、なんといったっけ。
というのは嘘で、名前がどうとかこうとか、愚問。名前はおろか、顔だって、声ですら、忘れたことがない。ずっと会うことが叶わない、今だって。あの子は僕のこと、覚えてるのだろうか。
出会いのいきさつは、僕と(例の女の子で、名字はっていう)の親から始まっていた。の母と僕の母は互いが幼馴染みで、小学校で一端別れたものの中学校でひょんなことから再会し、以来偶然に偶然が重なって各々の旦那が向かい同士に家を構えたって塩梅だ。しかも僕の母もの母も基本的に能天気で何考えてるのか分からない人で、父さんによれば、自分たちが幼馴染みで良い経験をたくさんしたから、是非自分の子供もそうしたいっていうことで、わざわざ妊娠期間を揃えたんだそうだ。両方女の子で自分たちを彷彿とさせることになりそうで喜んでたのに、結果僕が男だと分かって、の父親はたいへんに焦ったらしい(だからが僕の家に遊びに来たら必ず迎えに来たのか)。
が僕の家に来たら、何となく空気が華やいだ。僕の親は共働きで父さんも母さんも昼間はいないから、母方の祖母が来てくれてたんだけど、それがまた異常に昔気質な婆ちゃんで、僕の私服はいつ何時でも必ず羽織袴だし、おやつは年中水ようかんや蕨餅の類、、テレビは親だけの特権、更には洋風の庭を無理矢理日本庭園に改築してしまうなど、兎に角めちゃくちゃな人だった。だから立派な屋敷に住んでいるがちょこちょこと遊びに来ると何かと可愛がって、着なくなった自分の和服の生地で浴衣なんかを繕ってやったりしていた。僕はそれを見て微かに、嫉妬してたりもしたんだけど。そんな婆ちゃんも、が引越したショックからか、僕が小学校に上がった途端に亡くなってしまった。
時々、文通はしていた。手紙の内容は毎回毎回「お元気ですか」に始まり、「また暫くしたらそちらへ戻ります。お元気で」に終わる。だけどが帰省した事は、未だに一度もない。あの子は何故かメールアドレスも教えてくれないし最近の写真もプリクラも添付してくれないわけで、僕は全くと言っていいほど、あの子の面影を偲ぶ術を持っていなかった。
文通を繰り返すたびにあの子の字は大人びてみたり、かと思えば文字の所々に故意にクセが付けてあったり、どちらかというと僕は、の近況報告や凝り固まった挨拶の文面を読むより、あの子の字を観察している時間の方が多かったように感じる。
がまだ一度も帰って来ていないのに、僕は進学という道を辿って、中学生になってしまった。そこで僕は風紀委員長になり、雑用やら不穏分子の排除やら校内行事やらで、への手紙もまばらになり、一ヶ月に一回は交換していた文通も、正月やクリスマスなどに送る葉書程度に収まってしまっていた。それは向こうも一緒だったらしく、僕は忙しい傍ら、互いに段々と短くなってゆく手紙に目を通すたび、溜め息が漏れた。
思い立ったかのように婆ちゃんの死を手紙に書いたのも、そんな不安定な次期だった。あの子は自分の祖母よりも僕の婆ちゃんに懐くほどだったから、言葉は慎重に慎重を重ねて選んだ。成るべくあの子が衝撃を受けないように、胸を痛めないようにと、ゆっくりと時間を掛けて書いた結果、自分でも驚くほど美しい内容になってしまった。
の手紙には、悲しみと哀悼の言葉が日本語の極みを突いたかのように滑らかに記されていて、僕は単純にたまげた。は、本当に悲しんでくれていた。文面には、「今度恭ちゃん家にお線香をあげに行きます」と書かれていた。僕はそれを読みながら、この子は多分来ないだろうな、というある意味確信に似た呆然とした観念を、頭の中に蔓延らせていた。そしてまた例の如くの文章を何度も何度も反芻して、初めて手紙の中で「恭ちゃん」と呼ばれていることに気付いた。今まではずっと、「あなた」だとか「雲雀くん」だとか、だったのだ。僕はただ、が綴った「恭ちゃん」のたった一つの言葉に、寂しさを温かい何かで埋めるような、そんな感覚を覚えた。
そうこうしている内に僕はあっと言う間も無く三年生になり、風紀委員長としての仕事も重みも増え、更には最近群れ過ぎている人間(殊に二年の草食動物たち)に制裁を下したりする多忙な日々に追われて、への手紙はすっかり書けなくなっていた。それでも、あの子はあの子で、自分のペースで手紙を寄越してくれる。僕はそれを丁寧に封切りして、読んで、大切に机の中にしまって、それきり。僕の手はいつの間にか、への返事が書けなくなっていた。
それなのに彼女は、手紙を送り続けてくれた。僕は本当に申しわけなく手紙を読みながら、返事に詰まって、結局は書けない。
勿論、への返信が億劫になったとか手紙は面倒くさいとか、そんな単純明快な理由からではない。僕はただ、素直にに会いたいが為に、彼女の生きてはいない(少なくとも活力は感じられない)、字ばかりを見る事に、軽い絶望のようなものを悟ったのだろう。綺麗な言葉で弁明すればそうなるが、実の所そんな気品は併せ持ってない。に、会いたい。会って、あの頃のようにたくさんの話をして、あの子を抱きしめたい。
が一人で書きつけた八枚目の手紙に、何の前ぶれもなく、こう綴られていた
( 星が降る夜、会いに行きます )
躊躇いながら、試行錯誤を重ねながらやっと書いたような、短い手紙だった。
*:.。..。.:*゜*:.。..。.:*゜*:.。..。.:*゜*:.。..。.:*゜*:.。..。.:*゜*:.。..。.:*゜*:.。..。.:*゜
今年初めての霜が降りた冷たい朝に、は本当にやって来た。
昔よりも数段背が伸びて(当たり前だけど)、でも儚げで頼り無さそうな華奢な手足と眼差しは、あの頃のままだ。は重たそうに引っ張っていたトラベルバッグを地面に立てて、玄関でただ突っ立っている僕に、やさしく笑いかけた。
「恭ちゃん、荷物、運ぶの手伝ってくれないかなあ」
しまったうっかり呆気にとられていた、迂濶だった。
火を着ければ梅の香がするという線香が、婆ちゃんの匂いだ。最初のうちは「え、これが梅?嘘だろ」とか思ってたのに、慣れというのは真に面白いもので、もうこの匂いが梅以外の何なのか、全く見当がつかなくなっている。
僕は隣で静かに手を合わせるの横顔を、ずっと見ていた。少し、ふっくらした唇は多分化粧も何もしてないだろうに、缶詰のさくらんぼのように真っ赤で、小さな鼻は少しだけとがって、それが幾分か気丈そうに見えた。やっぱり長い
なあ、まつげ。
「恭ちゃん」
「なに?」
「おばあちゃん、わたしを恨んでないかな」
いきなり何を言い出すんだこの子は。
僕が鉄砲玉くらったように何も言えないでいると、は星座のまま僕に向き合い。畳に手をついて、頭を下げた。え、何してんのこの子、
「ごめんなさい。わたし、おばあちゃんが死んでからずっと、言いたかったの。だけど、なかなか言えなかった」
「え、ちょ」
「本当は知ってたよ、わたしが急に引っ越しなんかしたせいで、おばあちゃん死んじゃったんだよね。わたし、あんなに良くしてもらったのに、それなのに、長い間お線香もあげに来れないで。わたし、おばあちゃんにも、恭ちゃんにも、た
くさん迷惑掛けたよね」
の艶の乗った黒髪が揺れるたびに、照明でてらてらと揺らめく。僕はの言葉を一つ一つ反芻しながら理解しつつ、今どのような言葉を掛けるべきなのかを必死に考えた。久しく会っていないものだから、どんな風に喋れば
を安心させられるのか、まったく覚えていない。緊張をぼかす為に口の中に溜まっていた唾を呑み込むと、微かに喉が鳴って肝を潰しそうになった。何て言えばいい。…まずは、?
「、頭上げてよ。婆ちゃんはの事、恨んでなんかないからね」
「…嘘は嫌だ」
「本当だって。馬鹿だなぁ、を恨んだりするわけないだろ」
「でもわたし、わたし、さよならも言えなかった」
「が、辛いからお別れを言いたくなかった事くらい、婆ちゃんだって理解してたさ。婆ちゃんも、九十近かったからなあ。大往生だったよ」
「…わたし、実は学校も辞めてたの。ずっと恭ちゃんに言おう言おうと思って、何回も手紙に書いては出そうと思ってたのに、出来なかった」
学校を辞めた。少し衝撃を受けたけど、どうしてだろう、それに納得する自分の方が大きくて、僕が今やっている風紀委員長という立場と比較すると笑いそうになる。、本当に変わってしまったんだな。僕がに会っていなかった
間に僕自身が変化した分以上に、この子は変わってしまったんだ。そう考えると、さっきまで張り巡らせていた境界線が、何だか呆気なく振っ切れた。僕が優しく、生糸のように滑らかでひんやりとつめたいの髪をすくと、はそっと頭をもたげた。大きな丸い瞳から、涙が伝っている。
「おかえり、」
「…っうっ、うう、恭ちゃん、っ」
まるで吸い寄せられるようにして、僕はやわらかなの身体を抱きしめた。抱擁なんて、幼かった日々に遊びでニ、三度交わしただけだった。最も、あの時はまだ俗世の浄も不浄も知らない時期で、大人たちに隠れて交わしたそれは、抱擁と呼ぶには余りに幼稚だった気もする。しかし、あれから十年も経った今では、感覚から力加減から、満足感からして何もかもが違う。ちゃんとお互いがお互いを、求めあっているのだ。
「…恭ちゃん、キスしてよ」
「…目、閉じて」
の赤い唇に僕の少し乾燥した唇を押し当てると、やわこくて温かいそれは、実にらしくて、繊細で、懐かしくて、えもいわれなかった。おかえり、おかえり、。
「ただいま、恭ちゃん」
☆*:.。・゚
「綺麗だね…」
「ああ、とても綺麗だよ」
夜も更けた頃、漆黒のキャンバスから雫れ落ちた白い光の筋が空をめぐって、恐らくは僕たちに喜びを与えた。
両親はの帰郷を心から喜び、すぐにが泊まれる用意をしてくれたのだけど(それは新しい布団を買って来たり十分足りるとが言っているのに下着を何着も選びに行ったり、さながらが今すぐ僕の家で生活出来るほど
だった)、は一泊だけすると明日の朝一の電車で帰ってしまうのだと告げた。だから少しでも多くの思い出を作るために、こうして星降る夜空を並んで眺めているのだけれど。
星と月の光に照らされたは、やっぱり綺麗で、綺麗で。僕はこんなにうつくしい人と、こんなに贅沢な夜空を眺めて良いものかと、時たま真剣に考える。
「ねぇ恭ちゃん、わたし、今働いてるんだけど」
「うん」
「自分で自分を養うって、結構大変だし、わたしって寂しがりだから、もうそろそろ一人に耐えられなくなってくるの。そうだなぁ、あと三年くらいしかもたないかも」
があまりにもおどけた表情でそんな切実な事を言うので、僕は思わず吹き出してしまった。自分の意見を伝え終えて、くすくすと笑うに向かって言う。
「それはつまり、僕が君を養えってこと?」
白く、やはり白く、破れそうにきめの細かな肌を震わせて、が頷き笑う。彼女の背景には、闇に宝石を散りばめて、型の無い空間に流し込んだような星空。
ああ、僕は、今この瞬間を決して忘れはしないだろう。例え哭きそうに辛く悲しい場面に直面したって、信じられないような幸福に出会った時だって、今のこの僕たちのかたちがあってのことだって、ほら、君も僕も、もうとっくの昔に気が
付いてるだろ。
僕
君
星は地球とキスがしたいの
恋とリナリア様に提出/awake,泡( 素晴らしい企画に参加させて頂き、本当に楽しかったです。有難う御座いました! )
|